平間至 × ATSUSHI × スタッフ 対談 <前半>

みんなの心の中心にガマロックがあるから
お客さんにもちゃんと伝わっている

talk_main

震災、そしてそれぞれの出会い

―――簡単に自己紹介をお願いします。

平間至(以下平間):GAMA ROCK FESの主催をしている塩竈出身の写真家・平間至です。
塩竈フォトフェスティバルも主催しています。

ATSUSHI:同じく、GAMA ROCK FESの主催をしているATSUSHIです。

高田雄歩(以下雄歩):塩竈出身で在住の高田雄歩です。普段は各地の博物館、美術館などにある文化財や美術作品の保護対策業務を中心に、塩竈市で有害生物の駆除の仕事をしています。ガマロックでは、ボランティアの統括を担当し、ボランティア募集から当日の仕切りなどを主に行っています。ガマロックに関わるきっかけは、2011年4月17日、塩竈市で行った旧ロイヤルホームセンターでのフリーライブです。その日に初めて平間さんとATSUSHIさんと出会いました。僕も震災で非常にショックを大きく受け、知り合いとかが亡くなったりして……。やり場のない想いをATSUSHIさんとかに話していて、そうしたら「一緒にやるか」って声をかけていただいて始まったのが今に繋がっていますね。

佐藤勝好(以下佐藤):GIPの佐藤勝好と申します。普段は、アーティストが東北でコンサートを行う際に、コンサートの運営や企画・制作、宣伝などを担当しています。震災後の3月24日に、僕が一緒に仕事をしているTHE BIRTHDAYの事務所の能野さん、平間さん、ATSUSHIさんが物資を塩竈に持ってきていて、その日の夜に仙台に入り、一緒に食事をすることになったのがそもそものきっかけです。震災から間もない時期で、電気も仙台市内の中心部以外はまだ通っていなかった時期だったし、ガスもまだのところが多くて、飲食店も開いていないところが多かったんですけど、THE BIRTHDAYがよく使うお店が営業していて、じゃあそこで食べましょうという話になって。もちろんその時点で平間さんを知っていたし、ATSUSHIさんに関してはDragon AshはGIPが担当させてもらっていたのですが、直接の面識はなかったんですね。平間さんは違う約束があったのでその食事会にはいなかったんですけど、ATSUSHIさんといろいろ話をして「なんかやろうと思っているから、一緒にやろうよ」という話になって、具体的に動いたのが4.17の本塩釜駅の隣にあった旧ロイヤルホームセンターライブで。そこでお手伝いをして、それから平間さん、ATSUSHIさんのガマロックの構想を聞きました。「具体的に進めたいんだけど写真家とダンサーだから、イベントのプロでもないし、経験値も浅いから、一緒にやらないか」という話をもらって、ぜひ一緒にやりましょう!ってなったのがきっかけです。

平間:そういえば、震災直後、食べ物とか物資を運ぶのにワンボックスの車が必要で。誰かワンボックスを持っている人いないかなと思って、ふと能野さんに電話をしたら、ぜひ一緒に行こうということになって、こうなっていったんだよね。

佐藤:そうですね。不思議な縁です。

高橋英良(以下高橋):小島蒲鉾店の高橋英良と申します。ガマロックでは飲食を担当しています。私は仙台市出身で塩竈にはゆかりはなく、以前は塩竈はつまらない街だなーと感じてて。でも震災があってから、気持ちが変わって「どうにかしなくちゃならないな」って勝手に自分が思って。震災の日も自分の好きなSKAというジャンルの音楽を聴いて、自分を奮い立たせながら過ごしました。自分の会社も被災して、家もなくなって俺よりも苦しい人たちがいるんだなあと思って、自分が頑張れば誰かが救われたり、街も変わっていくんじゃないかなっていう想いがありました。飲食店の被害があったんで、そういうお店が復興できる方法がないかなと模索しながら活動してきました。4.17のフリーライブは、私はお客さんとして行っていて、そのときは関係者のことは全員知らなかったぐらいなんですけど、復興のために活動しているときにミヤギテレビの部長さんなどを通じて平間さんと出会うきっかけになって。そのうち仙台食堂でATSUSHIさんと出会い、どんどん繋がっていって、ガマロックに関わるようになり今に至ってます。

阿部徳和(以下徳和):今は塩竈市役所の建設部というところで塩竈市のインフラの計画と建設と維持管理を担当しています。平間さんとは震災の前から、塩竈フォトフェスティバルなどの関わりがあって。フォトフェスは、市の教育委員会が主管してやっていたんですけど、平間さんは街のほうにも相乗効果を発揮したいということで、当時、商工観光課にいた僕も関わり、商店街の人たちを巻き込んだり、そんな繋がりがありました。震災のときは、塩竈市体育館に各所から来た物資を必要なところに届ける担当をしていて、平間さんから電話をいただいて、何が足りないかと聞かれて、浦戸諸島のほうに靴が足りないって言ったら、平間さんがワゴン車2台を仕立てて、おまけにATSUSHIくんを連れて21日の夜に塩竈にやってきてくれた。4.17のフリーライブの前に、音楽でみんなを励ましたいから、場所を探してほしいと依頼があって。当時ロイヤルホームセンターだった所も隣のスーパーにはまだ車が突っ込んでいたり、瓦礫があったりしているなかで、必要最低限のとこまで片付けてライブをできる状態にしました。ライブのときは、観に来た人たちや自分自身もすごくホッとしたというか。楽しんでいいんだと、改めて思えた。それからガマロックの話があって。ガマロックの構想は震災以前からあったんですけど、この場所でどうだろうと平間さんやATSUSHIくんから相談されて、なかなか難しいということで、ではみなと公園はどうかと提案して。そして場所を提案した以上は、その周りの住民の人たちに対する説明などもしなくちゃいかないとか、続けるためにはどうしたらいいのかとか、当時の上司や市長などにも相談して、なんとか理解いただけたので市役所の人たちに説明して巻き込みながらなんとか3回目まで終わらせられたかなというところです。

高田彩(以下彩):ビルドフルーガスの高田彩です。普段は、アートギャラリーをやっていたり、地域の文化事業とか、そういったアートプロジェクトを地域のアーティストと企画したりしています。ガマロックに関わるきっかけはさまざまありますが、平間さんとは以前からフォトフェスなどのご縁があり、ATSUSHIさんとは、震災後の夜、語りの会があったときにお会いして、みなさんのお話を聞いたりしていました。4.17では私もその場にいて、音楽を聴いて涙が出たんですよね。そのときの音楽に救われた感じとかがベースにあって、これからの震災以降の地域だったり、未来を描くにあたって、築いたことを最低10年間、忘れないようにするためにそういった場をつくることが大事だっていうことを平間さんとATSUSHIさんが話してくれて、それに共感して、ガマロックを築く一員として参加しています。

平間:改めてみんなの話を聞いていて思ったのは、みんなの想いを繋げるっていうのが、自分の大事な役割だったのかなと思った。ATSUSHIがPOWER of LIFEという命を大切にするプロジェクトをやっているのを知っていたから、ATSUSHIと震災の支援を一緒にやることで、俺一人でやるよりも新たなことが生まれるんじゃないかとか。







———みなさんを中心にいろんな広がりがあって、塩竈に留まっていないというのがやっぱりガマロックの魅力かなと思いますし、お客さんもお客さんでガマロックが終わったあとも思い出したりと、日常の広がりがあると思うんですね。10年続けた上で、もっといろんな人に深く深く伝わっていけばいいなと思いますね。

徳和:ガマロックって、ボランティア担当、フード担当、アート担当だとか、アーティストまわりの担当だとかそれぞれいて、それぞれの役割分担が「これで終わり」という線引きではなくて、想像を超えてくる。みんなちょっとずつすごいんですよ。その「ちょっとすごい」が集まると、すごい良くて、例えば、美味しいフードを提供する人たちを集めたり、毎年あれだけの熱意があるボランティアを束ねて運営することとか、アートのワークショップでは新聞紙を利用してマントみたいにして子どもが笑顔で駆け回ったりとか。出演者を確保してくるのにも、信頼感がなければ絶対できないし。地元周りのことを言わせてもらうと、町内の人たちにガマロックの説明で挨拶に行くと、「平間さん、今度はこういうことをやるのね」って言うんですよ。今まで平間さんが頑張ってきた塩竈に対するいろんな貢献の力もあって「平間さんがやるんだったら」って言ってくれて。そこの理解力の深さというのも他の地域にはないのかもしれないですよね。ある日突然組み立てたのではなくて、それ以前からベースがあってのガマロック。

ATSUSHI:みんな言われてやっている感じはなくて、自主的に一歩踏み出すから超えてくるんだよね。たぶん言われてやっていたらそうはならないと思う。

震災から4年半が経って

―――震災から4年半。みなさんの中での心境の変化は

ATSUSHI:最初から想いは変わっておりません。これからもブレずにやり続けようと思っている。ただそれだけです。10年経ったら考えます。

平間:4年半経って、震災自体がある種日常になってきているのかなという気がしていて。日常なので、人それぞれ震災との距離感や接し方も違うし、そこが難しくて複雑になっている気がする。ガマロックはその日常の中にあるお祭りなので、そう考えるとまた、ガマロックの今後のあり方がちょっと変わってくるのかなと思う。それと、この前ラジオ番組で1日1枚アルバムをかけるという内容をやってて思ったのが、自分の心の中心にあることは、ちゃんと人の心の真ん中に伝わるんだなと。ガマロックに関しては、みんなの心の中心にガマロックがあるから、お客さんにもちゃんと伝わっているって感じて。

雄歩:ガマロックのボランティアに参加される人たちって、初開催の2012年からそうなのですが、そもそも震災前から地元・地域を盛り上げたいと熱く想っている人たちと、震災がきっかけで様々な想いが生まれて、それをぶつけたいという人たちが集まっています。変わらずそれぞれがもっている想いをぶつける場として、今年もみなさんには参加していただければと思います。唯一変わったといえば、年々、塩竈のみならず、いろんな地域の方々の参加が増えているところですね。10年続けるということで、僕としては、被災したとき小学生や中学生だった子もいろんな想いを抱えてすごしていると思うんですけど、時を重ねて「なにかしたい」と思ったときに、ガマロックという場所でボランティアに参加できる環境を残していきたいなという想いがあって。それらを大事にして毎年変わらぬ想いで、謙虚に取り組んでいきたいですね。昨年からはボランティアインフォさんのサポートも加わっていますので、ガマロックは10年続けますし、ボランティアでのご参加もいかがでしょうか。

佐藤:震災がきっかけでガマロックが始まったんですけど、本当に意味があることとか、ちゃんと筋が通っていることというか、本当に皆が納得して、それぞれが動いて「これが今の環境でベストだ」というものをそれぞれのセクションでやることが重要だと思っているので、そこはすごく意識しています。仕事の立場上、いろんなセクションの方々と話したりするのですが、ちょっとした意思疎通のずれとか、納得してやっているはずなのに、目指していたものと、違う方向になったりするのが、大きいイベントになるとあるんですけど、それを極力ゼロにしたいなと思っています。そのちょっとした空気感が一番お客さんに伝わっている気がして。現場に入って、会場を作り込んでいって、みんながスカッとした気持ちで「よし、やるぞ」と。開場した瞬間に「よっしゃ!」ってテンションが上がって、スタッフみんなが「どうぞ、楽しんでいってください!」 と、そこがピークになる様に持っていくというのはすごく重要だなと思っています。それが、今まで3回開催していて、どうにかクリアできているから、会場が良い空気になっているんじゃないかなと思います。それって、すごくシンプルではあるんですけど、非常に難しいことだと思います。この気持ちをキープして続けていけたらと思います。

平間:このメンバーで、GIPがイベントとしての唯一のプロなんだよね。勝好を含めたイベント運営のプロが、ガマロックに特別な気持ちで関わってくれているというのがありがたいし、すごくそれは宝だなと思う。たくさん仕事があるうちの一つではなくて、勝好にとっても特別なフェスだと思ってやってくれているのが本当にありがたいなとすごく思う

佐藤:なかなかこういう機会はないですよ。たとえば、一から我々がこういうことをやりたいと思って作れるものでもないし、こちらも有り難く携わらせていただいています。

GAMA ROCK FES 2020 実行委員会 All Rights Reserved.
※当サイトに掲載された文章や画像等の著作物を無断で引用・転載することを禁止します。