開催に至るまで
———2012年にガマロックを初めて開催しました。それ以前からの塩竈との関わりも含めて平間さんとATSUSHIさんはどんな想いでいましたか。
ATSUSHI:さすがに3.11の衝撃が強すぎて、次の日は何かできるという状態ではなかった。翌日、POWER of LIFEに関わるアスリートやミュージシャンからから「ATSUSHIなにかやらないの」と電話がかかってきて、「何かやろう!」って切り替わって、エンジンがかかった。2~3日後に平間さんに電話をして、「行くんだったら僕も行きますよ」と。もともとPOWER of LIFEで「生死」について対峙してやってきたし、多少なりとも動物などの悲惨な現場を見てきたので。とりあえず行かなきゃって思った。
平間:まずは、3月22日に宮城県へ行きました。その頃は東北道は宇都宮で通行止めだったのですが、実際走ってみると仙台まで行くことができました。そのときにメディアと現実が違うことをはっきりと感じた。かつてから知り合いで市役所の阿部徳和っていうキーパーソンがいて、当時、物資の担当でした。彼と連絡を取り合いながら必要な物資を届けに行きました。
ATSUSHI:最初の3日間、塩竈、七ヶ浜~東松島あたりを車で回りました。そのときにパンと水を渡しながらたくさんの人たちに話を聞いて。どういう状況で、どんなことを望んでいるのかということを聞きました。そこで聞いた話を次の炊き出しやライブに反映していったんですよ。
———ATSUSHIさんは、現地の人と対話するときに躊躇はなかったんですか。
ATSUSHI:そのときは何も考えていなかったんですよ。そこを考えたら、たぶん行けない。
平間:逆に地元ではないから声を掛けることができたかもしれないね。あとは使命感。自分が何とかしなきゃっていう思いが一番だったと思います。
———ATSUSHIさんは普段は演者ですが、こうやってガマロックをやってみて、どう感じましたか。
ATSUSHI:話は前後しますが、3月16日に東京のクラブクアトロでライブをやっているんです。その頃東京のライブの予定が全部飛んで、電気がどうだこうだといろいろと混沌としている状況だったんですけど、じゃあ一切電源を使わないでライブやろうと。で、MONGOL800のキヨサクと一緒にライブをやったんですけど、その日の朝までけっこう悩んでて。この時期にライブをやっていいのかどうなのか、とか。それで、まあ、やったほうがいいだろうと。人なんて来るのかどうかと思っていたところ、500~600人が来てくれました。みんながけっこう、涙してくれるなかで、「音楽とかアートの力って非常に重要なんだ」ということを再確認して。そんなことを踏まえながら、平間さんに「やっぱりライブと炊き出ししませんか?」と切り出したんです。
平間:23日に行った、尾島町(塩竈の飲み屋街)に「ナインマイルズ」っていうレゲエバーがあるのですが、ほとんどお店が閉まっていた中でそこだけはやっていたんですよ。絶対にやってないだろうなと思ったら、そこだけはやっていたんですよ。そしたら、向こうもかなり驚いていました。最初のお客さんが僕とATSUSHIで。向こうもビックリですよね。最初のお客が……
平間・ATSUSHI:おまえらかよー!って(笑)
平間:お店の光が見えた瞬間に、「これはやっていいんだ」。自粛ムードによってなんとなくで自粛することない。できる人がちゃんとやり始めたほうがいい。そう自分の中ではっきり分かった。僕自身、塩竈フォトフェスティバルをやったりだとか、役所の人たちと連絡を取りやすい状況だったので、それもATSUSHIにとっては大きかったと思います。
ATSUSHI:それで、「ライブと炊き出しをやろう」って決めたんです。それから4月17日のライブに向けていろんなことが始まった。平間さんが市役所のほうに話をしてくれて、どこだったら人が集まりやすいかと相談したら、元ロイヤルセンターの駐車場がいいんじゃないかということになりました。なかなかセンシティブな問題もあって、避難所ですることはできるけれど、それを全員が望んでいるかといったらそうでないと思う。そうやっていって、4月17日の日曜日にしようってなったんですよ。たぶん日曜日のほうが人が集まりやすいだろうってことで。
———この頃ってまだ寒い時期でしたよね。
———GAMA ROCKのベースはそれだけじゃないですよね。
平間:2006年くらいに、菅野美術館とかビルドスペースができたときに、市のほうから「アートとか音楽とかのイベントをやってみないか」って依頼されたんだよね。音楽のイベントをできる人がいなかったので、僕が考えるということでした。それが結局、絶ち切れになって、2008年にフォトフェスという形になったんですよ。
ATSUSHI:それが一番でかいですよね。一番はそこです。震災があったからやろうとしているわけじゃないっていう。それがなかったら、3.11があってそうたやすく「フェスやりましょう」というノリではない。もともとそいうのをやろうとしていたのを聞いていたから、そう決められた。平間さんたちが5~6年前からやろうとしていたことに意義がある。
———そのような土台があったんですね。実現に向けてこれまでの支援活動を踏まえ、おふたりが共有する想いとは。
平間:ATSUSHIは行動しながら、きっと塩竈愛が芽生えてきたと思う。もともと僕は地元が好きだから……。それと困っている人がいたら、「自分はどうするのか」っていうことです。
ATSUSHI:単純なことですよ。困っている人がいたら、そこで手を差し伸べるっていうこと。
平間:ATSUSHIのやさしさと僕のやさしさは違うものだとは思うけど、困った人がいるときにどうするの?ってことじゃないですか。きっと今までもそうだけど、市役所とかが自分の立場を超えて動いてくれる。そういう人がひとりでもいないと実現しないよね。僕らの想いを受け止めてもらっているし、お互いに思いやる気持ちがあったから、こういうふうになったんじゃないですかね。で、市役所の職員からしたら面倒くさいことが増えているっていうふうにも捉えられるじゃないですか。「何で職員やってるのにロックフェスやんなきゃいけないんだ~」って(笑)。ATSUSHIと僕がやることだったらきっと何か信じてくれているからやってくれているんじゃないですか。
ATSUSHI:このインタビューを書くときには話を盛ってくださいね(笑)。
平間:ダメだ。気持ち悪くなっちゃう(笑)。そのままでね、自分で言うのもなんだけどねって書いてね。
一同:(笑)
平間:塩竈には「おいしおがま」という言葉があるんですけど僕の知り合いがフォトフェスティバルに来たときに、塩竈の人たちからやさしさを感じて「やさしおがま」という言葉を僕に言ってくれました。
ATSUSHI:GAMA ROCKの裏テーマは……
平間:「やさしおがま」かもしれない。
ATSUSHI:まぁ、でもこれだけ地元の人ではない自分が温かく迎え入れてもらって、塩竈の皆さんにはこういうことで恩返しがしたいというところがあります。塩竈の音楽、アート、食の3つが柱として成り立つようないい一日になればいいですよね。今後も続けていくための第一段として。